市民活動、まちづくり、行政への各種提言など、まちづくりの分野で活躍する梅元建治さん。積極的に市民活動を続ける梅元さんのモチベーションがどこから来るのかを探るため、その生い立ちについてお聞きしました。
【目次】
- 01.長崎市の文化財・景観資産が抱える問題 »
- 02.持続可能なまちづくりのために »
- 03.居留地まつり〜行政主体から市民主体へ »
- 04.梅元さんの生い立ちを巡る »
- 05.新しい長崎をデザインしたい »
04.梅元さんの生い立ちを巡る
建物と人の関係性を大切にする父の姿
久保:梅元さんと出会ってから、もう長いことお付き合いさせていただいていますけど、自営の仕事もしながら、市民活動や行政の仕事を受けて積極的に動いているモチベーションって、どこにあるんだろうとずっと気になっていました。僕が知っている梅元さんは海産工房梅元(現・海産工房梅のや)の専務時代からですけど、その前は建築設計のお仕事をされていたんですよね。それ以前のお話はあまりお聞きしたことがないな、と。学生時代はどんな学生でしたか?
梅元:僕の親父が元々大工で、子供の頃から作業場に行ったり棟上げなどに立ち会ってたんだよね。僕が学生の時に台風の被害がひどい時があって、その時に親父は大工・建設業をほとんどやめてたんだけど、自分の建てた建物があるからお前も挨拶周りに来いと言われて一緒にまわったことがあってね。
久保:海産工房梅元をやってて、大工はもうやめていたのに?
梅元:そう。一軒一軒お施主さんのところを訪ねて、「何か困っていませんか、屋根は飛んでいませんか。」と言って親父と二人で屋根に登って補修して…。その時に、建物や物は使う人によって生かされているから、だから親父は人との関係性を大事にしているんだなと…。
大浦で生まれ育って、本当に良いものは観光客が来るお土産物屋が並んだ通りじゃなくて、裏道に入ったところから眺める大浦天主堂だったり、石畳が残っている洋館が並んでいる風景が良いんだけどなぁと思って育ってきたから、自分の暮らしの中にそういう心象風景がありながら、また親父がそういう立ち振る舞いをする中で、建築の道に進みたいなとおぼろげながらに思っていたんだよね。親父に「建築設計の道にいきたい。」という話をしたときに、「いつか一緒に仕事ができるときがくればいいね。」と言ってくれてね…。
でも、長崎の公立大学には建築学部がなくて、長崎大学の構造工学部しか選択肢がなかったんだよね。親父からも「構造と建築は違うぞ。」と言われたけど、そこしかなかったから進学することにした。入学後すぐのガイダンスで、「建築や設計、デザインはできません。」と言われて、悶々とした思いを抱えたまま過ごしてたね。
建築設計の道へと導いてくれた恩人との出会い
梅元:たまたま大学3年生の時に、経済学部の姫野順一先生という方の部屋掃除のアルバイト募集が出ていて、アルバイトをすることになった。ある日、姫野先生から「お昼ご飯を岡林先生と食べに行くから君も一緒に来なさい。」と言われて、当時あった教員専用のルーエンという喫茶店で僕ともうひとりの学生と姫野先生と岡林隆敏先生の4人で食事をすることになった。
この岡林先生というのがとてもぶっきらぼうな先生なんだけど、コーヒーを飲み始めた頃に突然、「君は何をしているんだ?」と聞いてきて。僕が構造工学科だと言うと先生は「君は何がしたいんだ?何をするんだ?どうゆう風にするんだ?」と、またぶっきらぼうな感じで聞くわけ。その時に僕は本当は建築の設計やデザインがしたいけれど、構造工学科では建築が出来ないと言われて少し悩んでいると言う話をした。すると、岡林先生が今から僕の部屋に来なさい、と。お昼を食べ終わった後そのまま岡林先生のついて行くことになった。そして岡林先生は「長崎の大学で建築デザインなんか出来ないから、設計事務所でアルバイトをしなさい、紹介してあげるから。」と言ってその場で電話をかけ始めて…。最初に電話をかけてくれたのが大草建築デザイン室の大草さんという方で「大草さん、うちの学生に変わった奴がいる。」と。
長崎大学工学部構造工学科(現・構造工学コース)時代。友人たちと。
久保:その日初めて会ったばかりなのに。(笑)
梅元:後に大草建築デザイン室でアルバイトすることになるんだけど、その頃は長崎総合科学大学の学生がたくさん来ていて、人で溢れているからと断られたんだ。そして次にかけてくれたのが梵建築工房の渡部さんという方だった。「渡部さん、うちの学生に変わったやつがいる。使ってくれないか、使えないと思うけどさ、タダでいいからさ。」と。それを隣で聞きながらひどいなぁ…と。(笑)
渡部さんが快諾してくれて、早速その日の夕方に事務所を訪ねることになった。渡部さんはものすごくいい人で、「初めてだから色々と分からない事もあると思うけど、勉強しながら一緒にやろうよ。岡林先生はあんな言ってたけど少しはアルバイト代も出すからさ。」と言ってくれて…。渡部さんの設計事務所には総科大の学生も2〜3名来ていて、その人たちからも色々なことを教えてもらって、自分は色々なことをやりたいと思っていたのに何も知らないな、俺は全然ダメだと思ったね。
大学の外で学んだ建築設計
梅元:それからは、今まで何となく聞いていた授業を一番前の席で受けるようになって。当時、総科大の宮原和明先生や片寄俊秀先生、林一馬先生が非常勤で建築の講座を長崎大学で行なっていて、講師室に先生が来たら講師室を訪ねるようにもなった。そうしているうちに先生から「梅元くんて変わってるよね。なんでそんなことに興味があるの?」と聞かれて僕の生い立ちや建築デザインを勉強したいという話をすると「君の学科じゃ難しいだろ。うちの学校に授業を聴きに来てもいいよ。僕の授業なら授業料いらないからさ。」と言ってもらえて総科大に授業を聞きに行くようになった。
同じ頃、長崎伝習所の都市夢塾という市民活動に渡部さんに連れられて参加することになった。総科大や市役所の職員の人たちがいっぱい参加していて、街をどう作るかとか会議をしたり、町歩きや路上観察をしたり、面白いなぁと思ったね。そこでも色々な人と仲良くなって、アルバイトをしていた設計事務所でも名刺を渡されて現場に行くようになって、初めてやったのが田の子だったかな。長崎大学の学生なのに、長大のことを全然やらない学生だったね。総科大の授業や市民活動が入口だった。
久保:当時の梅元青年の探究心はすごいですね。
梅元:建築が好きだったから、学校で学べないとなると外の人と会うしかなかったんだよね。母親がパーマ屋でお客さんとして来ていたお茶の先生の元にお茶を習いに行ったりもしたね。建築をやるんだったらお茶の感覚を身につけないと和室の感覚が分からないなと思って。お茶は全部決まっているから…。畳何目のところに器を置くとか。研究室の先生からも「お茶!?構造工学科でお茶を習っているのは今までにお前だけだよ。」と驚かれたね。(笑)
大学生のときには、建築に不可欠な和室を深く知るために、お茶を学んだ。
九州芸術工科大学の岡道也研究室の研究生に。そして就職。
久保:卒業後はどうされたんですか?
梅元:大学4年生の時に研究室についていたけど、まだまだ建築の勉強が足りないと思っていたから熊本大学か福岡の九州芸術工科大学に進学したいと思っていた。熊本大学には丹下健三さんのお弟子さんの木島先生といういい先生がいてね。その頃、岡林先生が隣の学科なのに僕が所属する研究室に頻繁に遊びに来ていて、岡林先生に卒業後の進路について聞かれたので、その事を話すと「今からは建築だけじゃダメだ。まちづくりと建築が一緒にできるところが良いから芸工大が良いぞ。」と。
久保:岡林先生は恩人ですね。(笑)
梅元:本当に恩人、たまに喧嘩もするけど。(笑)それで、岡林先生が芸工大の岡道也先生という人を紹介してくれて、ちょうどその頃、岡先生は長崎の仕事をしていて県庁職員の研修会で今度長崎に来るという話で、その時にお会いすることになった。会った時に岡先生が「ちゃんぽんでも食べよう。」と言うから僕が好きなちゃんぽん屋に連れて行って、ご飯を食べながら「来年、先生の研究室にお世話になれませんか?」と話をすると岡先生はあっさりと快諾してくれて。「ただ、大学院を受験するのにも時間がないから一年は研究生で来て、様子を見てそこから考えなさい。」と。会ったばかりで、僕がどんな人間かも分からないし構造工学科だったから結構ハードルが高いだろうと思ってそんなことを言ってくれたんだと思う。
それから大学卒業前の夏のうちから福岡に行って、アルバイトをしながら研究室に通った。家庭の事情もあって自立したいという思いが凄くあったから、少しでも働きながら研究室に行きたいという話を大草さんや岡先生にしたら、環・設計工房を紹介してもらって、その後そこに就職するようになったんだよね。そこは大学と提携している設計事務所で、研究室がコンサルティングの基礎調査を行なって論文にまとめて、設計事務所ではそれを計画立てして実施して行く。模型作りからはじめて、フィールドワークにも行ってという感じで、仕事は山ほどあったね。
芸工大時代は、働きながら研究室に所属した。
父親の癌が見つかり長崎へ戻ることを決意
久保:長崎に戻ってくるきっかけは何だったんですか?
梅元:アルバイトを2年、その後6年、環・設計工房に勤めて最後の年には結婚もしたね。これも縁で、卒業した中学校の美術の先生が「家を建てたいから梅元くんに設計をお願いしたい。」と言ってくれて、でも仕事がいっぱいいっぱいだったからデザインだけすることになった。週末は長崎に帰って打ち合わせをして、平日は福岡で仕事をして…。長崎で打ち合わせする際に、長大生時代にアルバイトをしていた事務所を使わせてもらっていて、そこの事務所に勤めていたのが今の奥さん。中学校が同じで学生時代は話をしたことはなかったけど、当時の梅元くんは“変わった奴”だったから奥さんは知っていて。建物設計が縁で付き合うようになり結婚した。
結婚して子供ができた一年半後に親父が癌になって、家業の水産業の事もあり、今まで自分のやりたい事をたくさんやって来たから、ここは一旦中止し、長崎に戻ろうと。
母、弟、そして闘病中の父と。この頃、長崎へ帰ることを決めた。
久保:その決断は大変だったんじゃないんですか。長崎に戻って家業に入ろう、と?
梅元:親父のことはもちろん、事業をするための運転資金で借金もあるし、弟だけに背負わすにはいかないと思ったからね…。でも、その時に31歳だったから抱えていた仕事が山ほどあった。現場や設計、開発の仕事など10件くらい同時進行でやっていて、抜けようにも抜けれなかった。また、その時は宮崎の霧島酒造の大きな仕事も担当させてもらっていたから。
先生の車を運転しながら福岡と宮崎を行き来していたんだけど、隣にいるのになかなか言い出せなかったね。思い切って話した時には驚かれて、「一旦休職してでもいいから戻ってくればいいじゃないか。」と言われて止められたけど、家業の事もあるので霧島酒造の仕事を最後に長崎に帰らせてもらうことにした。それが縁で長崎に帰ってくることになったけど、帰って来てすぐには今のような仕事はできなかった。親父は病気で死ぬ間際、水産業のマネジメントも全然できていない…。
【目次】