中村享一

Talkin’ About Nagasaki ―ゲスト:中村 享一さん[建築物が生み出す町の結節点]

中村さんに建築家になったきっかけについてお聞きしました。

【目次】

04. 建築の道を歩む

建築に進んだきっかけ

久保:中村さん、建築家になろうと思ったきっかけは何だったんでしょうか?

中村:私は、親父が電気技師だったこともあり、最初に大学を受験した時は電気学科を受験しましたが、全て落ちました。長崎北高でバレーボールばかりやっていて、九州大会の出場権を得ていたので3年生の夏が過ぎても部活をやっていました。それで受験に失敗し、予備校に入ったのですが、ちょうど十八銀行本店が新築中で、授業をサボって美装のアルバイトに行ったことがありました。工事の完成間際に、現場のゴミ回収や掃除をするアルバイトです。その時、図面を小脇に抱えて歩いている設計担当者を見て、格好いいと思ったんですよね。それに、あの建物は良いデザインだったので惹かれました。それで、建築設計の仕事がいいかなぁと思って、受験科目を変えて建築学科に行きました。あんまり大志は持っていませんでしたね。(笑)

久保:ちょっとしたことなんですね。

中村:ちょっとしたことですね。でも、やっぱりそれは、いい建築に出会ったからです。今でも十八銀行の本店は大好きです。あの建物はいいですね。

久保:いいですよね。予備校生で「十八銀行の本店が格好いい」っていう感覚って…。結構そういうモノに対する「これ格好いい」とか「これ好きじゃない」っていうことはあったんですか?



中村:ありました、ありました。私は美しい物やデザインの良いものが大好きでした。高校三年の時に丁度スカGが売られていたんですよ、ハコスカがですね。

久保:スカG?ハコスカ?

中村:スカGはプリンス(現在は統合されて日産)製の車で、正式名称はスカイライン2000GT。ハコスカは、箱の形状をしたスカイラインの愛称で、70年代のカーデザインの代表選手のうちの一つでした。車好きだったので車のデザインには興味があって、他にも例えばイタリアのカーデザイナー、ジウジアーロがデザインした、いすゞの117クーペは、格好いい車でした。

久保:長崎ではそんなに走ってなかったんじゃないですか?



中村:ないです、ないです。でも、長崎市公会堂の裏のところに、117クーペが一台あったんですよね。私は、スポーツ少年でしたが、音楽も大好きでした。長崎ではマイルスというジャズ喫茶店がラジオのスポンサーをしていたので、ラジオから当時よくジャズが流れていまして、受験勉強のふりをしながらジャズを聞いていたという…。少し背伸びした趣味みたいなものに対しての憧れはありましたね。音楽にしても、それからデザインにしても。洋服でいえばVAN、JUNがありましたが、もう一つ上のランクのKentが良いよねっていうような、メジャーより、ちょっと外れたところの格好よさ、みたいなものに惹かれましたね。だから、建築、建物をデザインすることが好きになったのは、やっぱり学生の時の遊び方だったかもしれませんね。

久保:それで、建築学科に行くわけですよね。

中村:長崎総合科学大学にですね。当時は造船大学という名前でした。京都大学卒の優秀な若手20代から30代の先生達が集まっていて、そこの建築学科に入りました。

大学時代。監督をしていた母校・丸尾中学校の女子バレー部メンバーと。

久保:大学卒業後はどうですか?


中村:大学を卒業して、白石建設という東京の会社に入社しました。その会社は、中堅どころの建設会社としての信用が日本一の会社でした。たまたま大学の先生のおかげで、そこに入社できました。土木の名門の白石基礎工事という会社の関連会社でしたが、実はその関連会社の創業者が長崎造船所の第3ドックを作っていたのを後で知りました。軍艦島の研究をしていくと、そういうことが段々と繋がってきて研究論文を仕上げなくてはという使命感にもなっていったわけです。

久保:白石建設には、何年くらい勤めたんですか?

中村:23〜28歳の頃で、5年くらいですね。

久保:どういう点がよかったですか?

中村:技術が高かったことです。それと、良いクライアントを持っていました。大使館や公使館の工事をやっていましたね。

久保:やっぱり視点が肥えるというか目が肥えるというか。

中村:日本でもトップクラスの設計事務所と付き合っていました。私は会社を辞める最後の仕事で、商業建築の設計をやらせてもらいました。表参道のメインストリートにある、当時16億ぐらいのビックプロジェクトで、貴重な経験でした。設計チーフとして担当できたのは、たまたまラッキー、運が良かったということでしたが。

白石建設、新人時代。工事現場に向かう途中で同僚と。

久保:白石建設に勤めた後は…?

中村:福岡の設計事務所に3年くらい勤めました。

久保:その後、独立ですか?



中村:そうです。

福岡にて独立

久保:なぜ福岡の設計事務所を選ばれたんですか?

中村:結婚する時に九州に帰ってくるという義母との約束がありました。嫁さんは高校の同級生で、九州には帰る、そんなに遠くないうちに帰るという約束でした。それで福岡の設計事務所に入りました。もう今はその設計事務所はありませんが、そこで設計チーフとして100床くらいの総合病院を設計したり、それからショッピングセンターをやったりと、結構大きい規模の設計をしていましたね。

 

久保:8年くらい勤めて独立ということは…。そうすると31歳ですね。独立したときは、どんな感じでしたか。1件目のお客さんのこと覚えていらっしゃいますか?

中村:覚えていますよ、覚えています。高校の同級生が仕事を持ってきてくれた、ローソンジャパンです。ローソンジャパンの地区本部を久留米に作らせてもらいました。前の事務所をあと1ヶ月で辞めるという時に仕事が入ってきたので、事務所の許可を得て在籍しながら仕事をしました。

久保:なるほど。31歳からっていうのは結構大変ですよね。

中村:そうそう、31歳でもう子どもが2人いましたから。その時は大変でした。

久保:数千万円、数億円という案件を回すわけですから、若いとなかなか信頼を勝ち取るのが難しいですよね。

中村:当然、仕事がなくなったこともあります。困ったときには、営業に回ったこともあります。勝手に企画してビルの図面を書いて、事業収支の計算もきちんと作って、「こうやると儲かりますよ」という感じのことをやりましたが、まぁ全部だめでしたね。そういうのは。

一番苦労した時期

久保:そこから例えば、一番苦労した時期っていうのが31歳から数年間ですか?

中村:最初はですね、31歳からしばらくは良かったんです。ぽんぽんぽんと三年間くらいは仕事が続きました。それはきちんと仕事をやっていれば次の仕事が来るものだと思っていました。その頃は、若いですからね。例えば旧長崎県庁前のHill Side 5番館の仕事なんかは、そうです。これは実家の隣の親戚の案件でした。それから鹿児島の脳神経外科の専門病院がありました。これは前事務所の実績を評価されて頂いた仕事でした。それもこれも建築雑誌に掲載されて、そこそこ、高い評価と評判をいただきました。
そうやって、実績ができれば何とかなると思っていましたが、実績ができても仕事は来ないというのがその後分かりました。やっぱり動かすお金が大きいので、30代ちょっとの私が「表参道の16億円の仕事をやりましたよ。」、「ベッドが100床ある病院をやりましたよ。」と言っても、クライアントはその建物を見ていないし、何を言っているのかわかりません。設計したと言っても全部をやったのか一部なのか、工事に関係しただけかもしれない、という感じで。要するに信用がないのに、金額は大きいわけです。例えば3億、4億かかるものに対して設計料は5%いりますと言うと、3%でやるところがあるからと断られたりしました。そういう中で、やはり仕事を取っていくことは本当に難しかったですね。

久保:何年くらい苦労されたんですか?苦しい時期っていうのは…。覚えていますか?



中村:一番苦しかったのは、ある程度の実績ができてきた頃ですね。コンペで勝ったり、社会的に信用を得てきた頃に、別府の仕事を紹介されて、当時の別府市長にお会いしました。まちづくりをやりたいというご相談でしたが、たまたまそこに飛行機の格納庫を温水プールに改造した施設がありました。壊してそこに何か建てて欲しいと言われましたが、「こんなのは壊すべきじゃない。絶対良い建築資産になりますから。」と私は言いました。戦前の飛行機の格納庫を平和利用にということで、戦後、温水プールに改造したものでした。そこでは力道山のプロレスや、美空ひばりの歌謡ショーをやった歴史があって、そういう歴史を含めて考えるとこれを潰すのは勿体ないし、構造的には持つということを説明すると、市長がその提案を気に入ってくれました。「じゃあ、中村さんやってくれるか。」ということで、1993年頃でした。再生建築、いわゆるリノベーションの概念はまだ普及していない時代でしたが、大規模調査をやり、残せることを立証して計画を立てました。「プールを取り去って、つち土間のコンベンションセンターにしましょう。つち土間にすることによってゲートボール場ができます。農機具の展覧会・展示会ができます。もちろん音楽会だとかもできます。」という提案をしていましたが、基本設計まで完了したところで別府市長選がありました。負けないだろうと言われていた選挙に、その市長が落選したわけです。

それで、全部中止になりました。あっという間に全部の仕事がゼロ。もうそれをやるためだけにスタッフを増やしておりまして。確か6人いたと思うのですが、毎月300万円程が給料と経費でかかっていました。別府市のその案件収入がゼロになったので、それが一番厳しかったですね。もう事務所潰れるぞ、と。その年は1年だけで2000万円の赤字になりました。

当時、最先端の3DCADや周辺機器を含めて結構な設備投資をしていたので、そのローンは残るは、スタッフは減らさないといけないはで大変でした。事務所を構えていたのが福岡の大名という場所で、ポール・スミスの直営店やABCマートが入っているビルでしたが、私が設計したので大家さんにお願いして入居していたわけです。しかし、そこもすぐ退去するわけにはいかず、半年かかって出ました。それが一番きつかったですね。経営的な問題で言えば。

久保:そうですよね、人が減れば当然生み出す利益も減るわけだし。それで返して行かないといけない…。

中村:3年超しのプロジェクトが突然に消えたので、さぁ大変。ちょうど自宅を建築中でしたし、子供は中学校の高学年でした。ヨットをやっていた息子が、ちょうどヨーロッパ選手権の出場権を獲得していましたが、自費で出場しないといけなかったりと大変で。子供は送りましたけどね、ちゃんと。まぁ、それに比べれば、その後は大したことはありません。(笑)

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ライター

久保 圭樹

フォトグラファー

久保 圭樹

Nagasaki365の発案・企画・設計、Webデザイン、写真撮影などを担当。普段は企業のWebサイトの企画・設計、デザイン、Webマーケティングのコンサルティングなどを仕事にしています。

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