長崎で新築、リフォーム施工、不動産事業などを行う株式会社TAFの田中社長に、自身の経歴、経営に対する考え方、そして事業の将来像についてお聞きしました。
(聞き手:久保 圭樹)
初期の経歴
―田中社長、初期の人生と経験について
今日はよろしくお願いいたします。まず、田中社長の経歴からお伺いしたいのですが、高校・大学はどちらでしたか?
田中社長:海星高校から駒沢大学へ進学しました。学生時代はほぼアルバイトに明け暮れる毎日でしたね。吉野家で3年半やっていました。学校にはほぼ毎日行ってたけど、授業には出てなかった感じで…。学部は経営学部です。
お父様がサッシ屋を経営されてたんで、経営学部へ進学したのでしょうか?
田中社長:いえいえ、元々そんなつもりはなくて、親から逃げるように東京に行ったんです。かなり厳しい父だったし、衝突が多かったのもあって、東京に行けばお盆と正月しか帰ってこなくていいだろうと。
祖父との思い出
田中社長:僕は牧島の出身で、もともとは漁師になりたかったんですよ。母方の祖父が鯛の養殖をしてたんで、僕も毎日のように海に出てて。だから中3の夏までは、水産高校に行くつもりでした。
だけどある日、突然祖父が「清隆、ちょっと来い。」っていうんです。確か、中3のお盆過ぎだったかな。
「お前はもう海には来るな。サッシ屋の息子じゃ。お前は漁師にはさせん。」
でも祖父は僕の目を見ないわけですね。かなり厳しい祖父だったんですけど、あんな顔見たのは初めてで、すぐ帰って親に聞きました。
「なにかじいちゃんに言っただろう?」
「いや、なんも言っとらんよ。」
そんなことはなくて、当然言ってますよね。そんな感じで昔からサッシ屋の道を引かされていたのがずっと嫌だったんです。だから一回東京に出たいと思い、逃げるように出て行きました。もちろん、そもそも帰ってくるつもりはなかったんですが…。
外食産業への興味
田中社長:学生時代は、吉野屋で3年半くらい働いて、店長代行をやってました。その時にちょうどなんでんかんでんの川原社長から「外食産業は面白いよ!」と言われて。彼が環七沿いでラーメン屋をされてて、まだブレイクする前の話です。
僕も当時、吉野屋から給料40万円、ボーナス70万円払うんで大学を卒業したら来ないかと言われたんだけど、そもそも勤め人はしたくなかったんで断ったんですよね。
明確なビジョンがないままも、なんとなく外食産業に進みたいと思っていました。
家業を継ぐ
―「サッシ屋を継ぐんではない。経営を継ぐ」
田中社長:川原さんに「福岡の修行したとこ、紹介するよ」と言ってもらったんで、大学卒業して2年、3年くらいしたら屋台をしようかなって思ってたんですけど、結局は親がお世話になった千葉の問屋さんに、就職の話をつけてきたんですよ。
乗り気ではなかったんですけど、夏休みに一回アルバイトに行ったら、気に入られて…。さすがに4年間大学行かせてもらって親に何もお返しできてないんで、じゃあ一回就職だけして5年くらいお金貯めたら、外食産業に行こうかなと思っていました。親からは「それでもいいから行ってくれ」と。
ところが、そこで1年半くらい働いた時に母親から電話が来て、「お父さんが具合悪い。とにかく体が今おかしいんでどうなるか分からないから、帰ってきて手伝ってくれないか。」って言われて。さすがに母から言われたら「うーん、しゃーないかな。」って帰ってきたんですよね。
そしたら親父、ピンピンしてるじゃないですか。(笑)
実際にはその時会社がゴタゴタしてて社員が辞めたりとか色々あったみたいで、母に「やったろ?」って言ったら「いや、本当に具合悪かった。」って言われて。
でも、30年経った一昨年に「実はあれは演技だった。」と。
言われたんですね。(笑)
田中社長が長崎へ帰ってきたのはおいくつのときですか?
田中社長:25歳で帰ってきました。それから36歳で代表になるまで10年間くらい父の下で働き、2005年に代表になりました。
帰ってきた時には会社を継ぐ意思があったのでしょうか?
田中社長:当然、長崎に帰ってくるってことは、会社を継ぎに帰ってくるっていうことなんで、そこは半分諦めましたね。ただ親父には言ったんです。
「僕はサッシ屋を継ぐんじゃない。継ぐんだったら経営を継ぐ」と。
事業拡大の戦略
―新市場への進出を含む、事業拡大へのアプローチ
サッシ屋からリフォーム、新築へと事業拡大
サッシ屋というのは、工務店などの下請けとして、家の一部を担当するっていうことなんですよね?そこから新築やリフォーム、不動産事業などへどのように事業展開していったのでしょうか?
田中社長:まずは2000年に、リフォーム事業をスタートしました。
当時サッシ屋っていうのは材料屋で、業界的には大工さんよりも格下なんですよ。その中でどうやってみんなの信用を得て手伝ってもらうかを考えると、飲みに行ったりしながら仲良くなるしかない。うちの親は「飲みに行って、そんな商売するもんじゃない」というんだけど、飲みに行かないと仲良くなれないじゃないですか。僕はその年に1年間で180万円くらい経費を使いました。飲み代だけでね。
それで結局3,000万円くらい売上が上がったんですけど、「こうやって人と仲良くなればいいのか。」っていうのがその時分かった。僕が会社の専務になったのはそのときですね。
僕が1993年に長崎へ帰ってきた当時、YKKやLIXILの販売店の総数、取引名簿がだいたい400社で、実際動いていたのが200社弱くらい。今は70社だから30年で約半分に市場が縮小しているんですね。
昭和60年ぐらいと比較すると家を買う層の人口が3分の2ぐらいになってますからね。
田中社長:着工数もね、180万戸建てたのが、今80万戸ぐらいまで減ってるんです。
それも最初、平成8年とか9年ぐらいに予測が出てたんで、じゃあそこで取り合いするか、色々するか考えてたんですけど、結局、材料屋だけでやっていくのは厳しいんですよね。だからリフォーム事業に参入したんです。
ところで、久保さんは「盆暮れ勘定」ってわかります?
盆暮れ勘定?分からないです。
田中社長:お盆と暮れしか支払いしないんですよ、工務店さんたちが。
それが、盆暮れ勘定。
そんなことが、あったんですか!?
田中社長:結局お金が入らないから払いません、と。ツケ買いですよね。当時は基礎着工してから家が建て終わるまでに半年以上かかってたんで、工務店はお客さんから前金もらうんだけど、まずは職人さんたちに払って、次に材木屋さんとか製材所に払う。そして材料屋の僕らは、最後にもらうことになるんです。盆と暮れだけに。ちょっと手形もらってるようなもんなんですよ。
さらにね、最終的には見積もりの時に値切られて、さらに支払いの時にいくらまけろよっていう世界だったんです。サッシ屋のままでこんなことしてても発展力ないよなってずっと思ってて、だから元請けになるために業態を変化させていこうと考えたわけです。
なるほど。それでリフォーム事業を拡大したわけですね。新築を始めたのはどのような流れだったんでしょうか?
田中社長:新築事業は、2007年に始めました。もともとリフォームは、網戸の交換であったり、水回りの交換などがあるので、サッシ屋をしながら一応できるんです。実際2005年に社長になった時にはリフォームの看板を掲げました。
その時は取引先の工務店が絶対離れていくだろうなと思ったんですが、幸いに離れなかった。でも新築はダメなんですよね。サッシ屋が新築事業やったら工務店から100%、一発で取引を切られる。
だって自分のところの領域に下請けが入ってくるわけじゃないですか。しかも材料屋っていう格下が。それはタブーだったんです。
そこで、当時あった有限会社事業組合っていう組合法のもとで組合を作って、そこで受けた新築の案件をTAFが下請けするような感じで2、3年やったんですよね。それで売上の元受け率が20%、30%と上がっていって、5年ぐらいで50%取れたんで、ここらで踏ん切りつけようかなと思って、2011年くらいに新築の看板を出しました。そのときは当然工務店のお客様はさーっと離れていったんですけど、売上の構成率は少なくなってたんで。
それがTAFの新築事業の始まりです。
家を売るのではなく、幸せを届ける
経営者になって事業を拡大していく中で、印象的な出来事や転機になったことはありますか?
田中社長:ひばりコンサルティングの笠原慎也さんとの出会いは強く印象に残っていますね。当時彼はソニー生命の長崎の営業所所長だったと思うんですが、僕は新築事業を始めたばかりで、色々学ばせていただきました。彼の言葉は今でも物売りの理だろうと思うんです。
彼は言うわけです。「人に家を買った後の人生を売らないでどうするんや。その家なんてお前たちにとっては一つの商品なだけだろう。そこだけ考えるとそこがお前らのゴールや。でもお客さんはそこからスタートなんや。だからその先のことを考えて売りなさい。ローンが後で払えないとかならないように、ちゃんと家を買った後のことも一緒に考えてやってるのか?」って。
その場にいたみんなが「確かにそうやー。」ってなりましたね。サッシ屋時代に工務店の下請けで仕事しながら、せっかく家を建てたお客さんがローン払えなくなった、ていうのを僕らは見てきた中で「それをお前も繰り返すのか?」って言われて。
だから、家を売るのではなくて、家を通してお客様へ幸せを届けるんだというのをいつも肝に銘じています。
■ひばりコンサルティング
https://hibari-con.com/
直面した課題
―従業員の退職やコロナウイルスの影響
従業員の大量退職
経営していて、大変だったことはありましたか?
田中社長:まあ大きなピンチはいくつもあるんですけどね。やはり2018年11月から2019年3月にかけて、社員18人中11人が退職したっていう…。大量退職したんです。約4ヶ月で…(苦笑)
えっ?何があったんですか?
田中社長:「結局社長が変わらないで、どうするんだ」と思って、僕が同友会や倫理法人会、その他の経営を学ぶところにも行って勉強し出したんです。そうすると色々今までやらなかったことをやりだすわけですね。
そんな感じで会社を変えていこうと思ったときに、大量退職が起きてしまって。
でも、同友会のある先輩から言われたんです。「田中君ね、俺も30人中18人辞めたことがあるんだよ。結局ね、よく考えてごらん。いてもらわないと困るけど、いてもらっても困る人から辞めてないか?本当にいいチャンスや。会社が変わるぞ!楽しくなるぞ!そのかわり3年間死ぬ思いで働きなさい!」って。
今は売上も会社の雰囲気もよくなってきたんで、あの一番きつかった経験があっての今だなと感じています。
コロナ禍の影響
その後、1年後の2020年4月には新型コロナウイルスの緊急事態宣言が出されることになりますが、事業にはどんな影響がありましたか?
田中社長:僕らが今やっている仕事は半年前とか1年前に受注したものなので、すぐには影響はなかったんです。パンデミックで部品や資材を作っている海外の工場が閉鎖されたり、輸入規制などで部材が入らないという影響が半年から、1年くらいして出てきましたね。それに加えてお客様もコロナウイルスで接触ができないとか、なかなか購買意欲が出てこない状態になっていきました。
例えば、完成見学会を開催すると、3人の営業担当がそれぞれ1日に4コマを受け持ち、12組のお客様の見学に対応できるんです。だけどコロナウイルスの影響で営業1人で4コマの4組しか入れないんですよ。そういう影響はありましたね。
なるほど、そうするとその分だけ受注も減りますね。
田中社長:はい。でもうちは1年前の大量退職で、人が減ってたんで、売上はすぐには変わらず固定費が減ってた。だからその後の受注数が減ってもなんとかやっていけたっていう経緯があります。黒字にはならなかったけど、大赤字にもならなかったんです。
経営の哲学
―田中社長の経営哲学と先代の教え
恩送りを大切に
田中社長が、経営するにあたって大切にしていることを教えてください。
田中社長:やっぱり「恩送り」でしょうね。「自利利他」っていうのがうちの社是なんです。そして「お客様の笑顔のために心を込めて尽くします」っていうのを経営指針にしています。つまり「まず自分よりも他人を優先しなさい。彼らが喜んだことを報酬としなさい。」というのが会社としての考え方です。
両親の教え
先代のお父様から引き継いで仕事をしていくと、色々な苦難もあったと思うんですが、その中でも両親に対する感じ方、感情が変わる時ってありますよね。
田中社長:若い頃は、衝突ばかりで、父とはあまり反りが合わなかったんですけど、自分が会社の代表の立場になると、要所要所でやっぱりすごいことを言ってたことに気づくんですよね。「人のためにちゃんとしなさい。」とか。でも当時はわからなかったんですよ、全然。それを今になっていくつも思い出します。
「決めたお金は1円であってもきっちり払いなさい」というのもそうです。先程話したように、僕らはサッシ屋時代、見積もりの時と、支払いを受けるときに値引かれる立場にあったわけですよ。でも親父もお袋も自分たちが払う場合はずっと「一度決めたお金はどんなことがあっても、1円であっても払いなさい」っていう。
さらにね、これがうちは、月末締めの翌月20日の現金払いなんですよ。建築業界ではありえないんですよね。だって支払いサイトが20日でしょ、でもこれを締める作業に5日ぐらいかかるんですよ。実質15日しかないんですよね。だけど、「締め日と支払い日は、絶対変えたらいけないよ。」ってね。
だからそういう要所要所で他の会社にすれば楽になるんだけど、やっぱり「苦を選びなさい。」ってずっと言われていて、そういったことは父と母の大切な教えだと思っています。
経験から学ぶ
―長崎、インドネシアでの活動や経験が、現在のビジネス実践にどのように影響を与えたか
長崎県中小企業家同友会での活動
長崎県中小企業家同友会で副代表理事をされていますが、どのような活動をどのくらいされているんでしょうか?
田中社長:中小企業家同友会は、長崎で720社、全国で47,000社弱の経済団体です。長崎の同友会には、8つの支部があって、長崎市に浦上と出島、諫早、大村、島原、佐世保、北松浦、五島があります。支部の例会は、基本的には企業体験報告を行っています。
経営の勉強会は毎月1回、あとダイバーシティ、経営労働とか情報広報とか仲間づくりなど8委員会があって委員会ごとの活動を支部に分かれています。
その中で僕は、仲間づくり委員会の担当理事や五島支部の理事をしていて、出島支部、三役会と理事会などに参加しているので、月に8日から、多い時で15日は同友会の活動をしています。
運営に関わることで、会社の経営だけでは得られない経験を得て、それがまた会社経営に活きています。
■長崎県中小企業家同友会
https://nagasaki.doyu.jp/
インドネシア「バリの兄貴」
田中社長は度々インドネシアに出向いているようですが、インドネシアに行くきっかけは何だったんですか?
田中社長:先程話した笠原さんが、僕が経営で悩んでいた時に「いい人がいるから、ちょっとバリ島まで会いに行こうか。」って、バリのアニキって呼ばれている丸尾孝俊さんを紹介していただいたんです。
初めてお会いしたときはね、「よう来たなー。お前、年に何回来るんやー」って(笑)
最初で最後のつもりで行ったんですよ。でも1回って言ったら怒られるだろうな、3回は難しいかなって、とりあえず2回って言っとくかな…って。(笑)
「今日会ったから友達やろ、次来たら親友やで。3回目来たら家族や。」って。1年半後に3回目行ったんですよ。
バリのアニキのもとには、今までに延べ3,000人くらい来てるんです。だから「おー!清隆、よく帰ってきたなー。お帰りー!」って言われたときは、「えっ!覚えてるんですか?」って。「当たり前やー」って。それから毎年2回はバリ島に行っています。
■バリ島のアニキ公式サイト
http://www.maruotakatoshi.jp/
年2回は結構な頻度ですよね。インドネシアでの出会いを通じて、事業にプラスになるような話とか視点っていうのがあったんでしょうか?
田中社長:あの時兄貴から「通え。」って言われたんですよ。
「お前らアホやけんな。すぐタイ行ったり、ベトナム行ったり、台湾行ったりするんや。そんなやつほど信用されないんだぞ。バリに通ってごらん。」って言われて、最初全然意味がわからなかったんですよ。
通ってたら2年目ぐらいに現地の日本人の女の子から「田中さん、網戸いいのないですか?」って言われて「また半年後に来るから持ってきちゃるわ。」って言って、YKKの網戸をクルクルって巻いて持って行って、どうするんやって言ったら「網戸はテープで貼り付けるんです」って。
インドネシアの網戸はテープで貼ると破けるので、「日本の網戸、最高です!田中さん、網戸の事業をインドネシアでしないですか?」ってその現地に住んでる女の子に言われたんですよ。
兄貴に言ったら「そんなアホな儲からんことするな」って言われて「そっかー」って。たしかに、日本から網戸持って行くってなると関税もかかるし、インドネシア人の平均年収が30万円ぐらいで、日本の網戸がだいたい1つの中間で7,000円ぐらいするんでとても合わないよなと思ってたんです。
そしたらたまたまYKKの所長が来てたんで、「網戸を輸出しようかなと思うんだけど、なんかいい方法ないかな?」って尋ねたら、「なに言ってるんですか、田中さん。うちはジャカルタ工場がありますよ!」って言われて、その半年後にはジャカルタまで行きました。
そこは網戸を日本向けに作ってるんですよ。だから材料買わんでいいやんって。輸出せんでいいやんってなって。
でも、2018年に行った時は現地の人がまだ政治的にあまりよくない状態だからもう少し待ったほうがいいよって教えてくれました。通っているとそういうことにちゃんとストップもかけてくれる。今は網戸だけでなくリフォーム事業も含めて検討している段階ですね。
長崎の住宅事情と技術継承の問題
長崎の住宅事情など、住宅業界から見ていて感じていることはありますか?
田中社長:長崎は工務店にとっても家を建てたい人にとっても、非常に難しい時代に入りつつあります。
長崎市だけでいうと、人口減少や三菱重工長崎造船所が縮小したりで、新築に対する需要はかなり小さくなっています。家を建てる土地もなかなか見つからない。どちらかというと建て替え需要が多いエリアなので、ビルダーは大村や諫早に軸足を変えようとしてます。
また、大規模な団地の開発も難しい時代です。だから小さな工務店が自社で5〜30くらいの団地を作っていくしかないんですよ。場合によっては他の工務店さんと共同開発も行いながら。これってつまり財力がいるんですよね。
消費者の視点で言うと、2019年のコロナの影響で建築費だけで300万円も上がってるんです。しかも今後、家の断熱基準が上がっていくとまた数百万円上がることになる。
僕らが15年前に新築事業を始めた時には、2,500万円あれば土地代含めて家が建ったんですよ。今は土地も上がっているから、3,500万円でも難しい時代なんです。
コストや技術的な制約が大きくなっているので、今後は3Dプリンタ住宅が出てくるでしょうね。それはもう間違いない。
だから僕らが新築事業だけやってると多分先は無いなって思っています。リフォームにももっと力を入れながら、海外に拠点を抱えて人材の確保と技術の伝承をする。海外での事業展開も考えておかないと日本だけではちょっと厳しいかなと思っています。
TAFの将来計画
―田中社長のビジョンと会社の将来計画
100年続くTAFを目指して
最後にTAFとご自身の将来展望や夢を教えてください。
田中社長:TAFの展望としては、今年50周年を迎えたので、次は100年を目指したいと考えています。
その時は僕も生きてないし、次の世代がやっていくんだけど、そのために今はこれから100年を目指すにあたって、経営指針をしっかり策定しようとしています。
キーワードは「みんながワクワクする会社にしよう」です。そうすると必ずしも100年後に会社の軸が建設であるとは限らない。企業って基本的に続けないと意味がないので、社長が変わるたびに会社がおかしくなってはダメなので、今回3年かけて事業承継していくんですが、今後TAFが進むべき道、指針をつくっていくのが今の僕の大切な仕事です。
100年を目指すためには、業態にこだわらずに、社員さんがやりたいことを積極性を持って自らやってもらう必要があります。今まで自分が動いていた部分が大きいので、これからはそれを変えていかなければいけませんね。
人作りかもしれないですね。個人的な展望はいかがですか?
田中社長:僕は60代の後半で調理師免許をとって、70歳からは1日1組の居酒屋をしたいですね。
朝から牧島の海に釣りに行って。(笑)
田中社長:そうそうそうそう。裏に畑があるんで畑もやりながらね。隠居生活って感じではあるんですけど、やっぱり人とは関わっていきたいなっていうのがあって。
その前にTAFは50代のうちに承継して、インドネシアの事業は50代で構築して60代で継承することを目標にしています
僕が社員の大量退職という苦い経験をしたように、次の経営者も困難に直面するときが必ず来ると思うんですよね。そんなときには、引き上げてあげられるくらいの立場で、70歳くらいまではこの会社を見守りながら、何かできたらなっていうのが夢です。
全てはお客様のおかげ
今日お話を聞いてみて、人との付き合いを大切にする、重きをおいているというところが、田中社長の信条なのかなと感じました。
田中社長:そうですね。でもTAFが今のようになったのは、全部お客様のおかげですからね。
サッシ屋してたら「あんたのところで風呂変えれんとね。あんたやったら頼むとけどね。」って言ってくれる。お客様から言われると「じゃあなんとかリフォームできるようにしますんで。」と言うしかないじゃないですか。
そうしてると「あんたんとこ、新築はせんと?リフォームもするんだからできるやろ。」って。その場では「いやさすがにそれはねー。」って言うんだけど、「やっぱり新築せないかんか。」と。
新築やってたら今度は「土地を探してくれんね」って。新参者が不動産屋に行っても、なかなかいい土地を紹介してくれない。だから「自分たちで不動産屋もした方がいいな。」って思って。そうやってお客様のおかげで事業が広がったという、ただそれだけのことなんです。
株式会社TAF
長崎市古賀町1018-1
TEL:095-839-2695
Webサイト:
http://www.t-a-f.co.jp/
関連事業
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http://tophome.t-a-f.co.jp/ - エコフィールドホーム:
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